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【埼玉県公立高校の歴史を紐解く】第2回 大正時代創立編

2022年11月14日配信

農業高校に加え商業高校も、女子校も続々と

 高校の歴史を紐解くシリーズの第2回は大正時代編です。
 大正時代は明治時代に比べ短期間でしたが、その間に19校が創立されました。
 下表は現在の校名で表記しています。

※2022年11月現在、現存する埼玉県公立高校のみ記載

 

◆ほとんどが西部地区と北部地区
 前回紹介した明治時代創立の学校16校を、東西南北の4地区で分類すると、北部地区が7校、西部地区が4校、東部地区が3校、南部地区が2校と、北部や西部に偏る傾向が見られましたが、大正時代に入ってもその傾向は続きます。
 大正時代創立の19校を東西南北の4地区で分類すると、次のようになります。
【東部5校】岩槻商業・久喜・羽生実業・杉戸農業・越ヶ谷
【西部7校】豊岡・川越総合・飯能・松山・小川・松山女子・市立川越
【南部1校】大宮工業
【北部6校】進修館・鴻巣・熊谷商業・深谷商業・児玉・本庄
※岩槻は現在、さいたま市岩槻区となっていますが、合併以前は岩槻市として東部に分類されることが多かったので、ここでは岩槻商業を東部に分類しています。

 明治・大正時代までに創立された学校は、北部13校、西部11校、東部8校の順で、南部はもっとも少ない3校(浦和・浦和一女・大宮工業)です。
 令和のいま、県内人口第1位のさいたま市(旧浦和市・旧大宮市)や第2位の川口市には、この時代、ほとんど学校がなかったのは意外です。
 

◆進修館は江戸時代の藩校から命名
 大正時代に入って最初にできたのが県立進修館高校です。平成16年までは行田進修館でした。大正4年に「忍町立実科高等女学校」が創立されたのが始まりです。「忍」は「おし」と読みます。江戸時代、行田の地には「忍藩」があり、その藩校が「進修館」だったので、その名を現代に蘇らせたのです。複雑な経過をたどりましたが、行田女子・行田(行田商業)・行田工業が統合されて進修館となりました。受験生の皆さんに入試情報を発信している埼玉県立総合教育センターは、旧行田女子高校跡地にあります。

◆旧制中学5番目が本庄、6番目が松山
 第1回でお伝えしたように、男子のための中学校(旧制中学校)と女子のための高等女学校が、現代で言う普通科の学校です。
 旧制中学校は明治時代に浦和・熊谷・川越・春日部の4校ができましたが、5番目が県立本庄高校、6番目が県立松山高校です。番号こそ付いていませんがナンバースクールに次ぐ伝統校です。
 本庄高校は昭和に入り本庄女子高校と合併したため共学校となりましたが、松山高校は男子校のままです。同校には大正時代に作られた校舎が松高記念館として保存されており、国の登録有形文化財に指定されています。
 県立鴻巣高校は大正7年、「武陽中学校」として創立されました。私立から組合立、町立などを経て、戦後に県立となりました。現在の県立鴻巣女子高校が鴻巣高校の一部だった時代もあります。

◆なぜ久喜は久喜女子ではないのか
 県立久喜高校は大正8年、「久喜実科高等女学校」として創立されましたが、2年後には「久喜高等女学校」となりました。現在の浦和一女、川越女子、熊谷女子に次ぐ4番目の高等女学校です。歴史的には明治44年に同じく実科高等女学校としてスタートした春日部女子の方が古いのですが、「県立の高等女学校は春日部より久喜に」という運動が盛り上がり、昭和に入ってからの春日部女子に先んじて高等女学校になりました。
 戦後、「久喜女子高校」となりますが、昭和24年に男女共学の定時制が併設され、また全日制も共学化されたので、女子をはずして「久喜高校」なりました。その後、男子の志願者減少に伴い男子募集は停止しましたが、定時制は今日に至るも男女共学であることなどから、校名はそのまま「久喜高校」となっています。(注:この部分の記述は久喜市のホームページを参考にしました)

◆越ケ谷も女子校からの出発
 大正時代、女子校が多く作られました。
 前述の久喜に続いて、大正15年、県立松山女子高校が「松山実科高等女学校」として創立されました。
 また同年県立越ヶ谷高校が「越ヶ谷町立越ヶ谷実践女学校」として創立されました。その後、昭和に入り「県立高等女学校」となり、戦後すぐに共学化され現在の「県立越ヶ谷高校」となりました。今でこそ県下4~5番目の人口を誇り、高校が5校ある越谷ですが、昭和44年に越谷北高校できるまでは県立越ヶ谷高校が唯一の高校でした。
 県立小川高校は大正14年、「小川実習女学校」として創立され、その後、昭和に入ってすぐに県立の「小川高等女学校」となり、昭和25年に共学化されました。
 県立飯能高校は大正11年、飯能町など9か村により「学校組合立飯能実科高等女学校」として創立されました。昭和に入り「県立飯能高等女学校」となり、その後共学化され昭和24年に飯能高校となりました。令和5年度から県立飯能南高校と統合され、新「県立飯能高校」となります。
 県立児玉高校は大正11年、「組合立児玉実科高等女学校」として創立されました。後に「県立児玉高等女学校」となり、戦後に共学化するとともに児玉高校と改称しました。なお、本稿明治時代編で紹介した児玉高校は現時点における児玉白楊高校です。令和5年度に児玉高校と児玉白楊高校は統合され、新「児玉高校」がスタートします。

◆元は農業高校だった川越総合
 大正時代に入っても農業高校の設立は続きます。
 大正8年、現在の県立羽生実業高校が「学校組合立羽生農業学校」として創立されました。戦後に「県立羽生実業高校」となり、商業系の学科も加わりました。
 県立川越総合高校は大正9年、「埼玉県立蚕業学校」として創立されました。明治から大正にかけては養蚕業が日本の主要産業だったので、そのための人材育成が必要でした。戦後は「県立川越農業高校」となり親しまれてきましたが、平成8年に総合学科を設置し川越総合となりましたが、長く農業高校であったため実習施設が充実しており、農業関連教育に特徴を持つ学校となっています
 県立杉戸農業高校は大正10年、「北葛飾郡立杉戸農業学校」として創立されました。その後「県立杉戸農業学校」となり、戦後すぐに現在の杉戸農業高校となりました。
 県立豊岡高校は大正9年、「組合立豊岡農学校」として創立されました。その後、「県立豊岡実業学校」などを経て、昭和39年に現在の豊岡高校となり、昭和44年に商業科が廃止になり普通科のみの高校になりました。

◆深谷商業など商業高校の誕生
 大正時代に入ると、後に商業高校となる学校が誕生しています。
 県立岩槻商業高校は大正7年、「組合立中部実業学校」として創立されました。その後「岩槻実業学校」となり、戦後は「県立岩槻実業高校」と称し農業や工業関係の学科もある学校でしたが、それらを順次廃止し、昭和39年に現在の岩槻商業となりました。
 県立熊谷商業高校は大正9年、「熊谷商業学校」として創立されました。その後、工業高校に転換、さらには商業・工業併置の「熊谷商工学校」へという変遷がありました。戦後の昭和32年に熊谷市立から「県立熊谷商工高校」へ、昭和41年には工業分野が県立熊谷工業高校として分離し、現在の熊谷商業となりました。夏の甲子園大会には熊谷商工として2回、熊谷商業として3回出場しています。
 県立深谷商業高校は大正10年、「町立深谷商業学校」として創立されました。その後、「県立商業学校」を経て、戦後に現在の深谷商業高校となりました。開校間もない頃、渋沢栄一が訪れ、生徒に講義をした上で「至誠」「士魂商才」の言葉が贈られ、これが同校の校訓となっています。「二層楼」と呼ばれる開校当時の校舎は国の登録有形文化財となっており、一般向けにも公開されています。同校が商業高校の中でトップ校とみなされているのは、歴史が古いだけでなく、一貫して商業学校(高校)であり続けたためだと思われます。
 市立川越高校は大正15年、「川越商業学校」として創立されました。その後変遷を経て、戦後は市立の「川越商業高校」となりました。平成14年に商業系と普通科を併設する市立川越高校となりました。

◆工業高校の始まりは大宮工業
 県立大宮工業高校は大正14年、「大宮町立工業学校」として創立されました。明治時代創立の川越工業が染織学校から始まったのに対し、大宮工業は最初から工業高校として始まりました。県立の「大宮工業高校」となったのは昭和38年です。今年度、文部科学省から「マイスター・ハイスクール」に指定され注目されています。令和8年度には浦和工業と統合され、新「大宮工業高校」がスタートします。

 時代背景を考えれば当然ですが、この時代も農業高校が数多く創立されています。大正時代は商業高校や女子校(当時は実科高等女学校)も増えてきました。現在の感覚で言う普通科の学校は、旧制中学校として本庄や松山が作られた程度です。
 次回から昭和時代に入ります。

 

(教育ジャーナリスト 梅野弘之)

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