熊谷空襲を忘れない市民の会は25日、熊谷市宮町の市緑化センターで約50人が参加して、夏のイベントを開いた。太平洋戦争終戦前夜の1945年8月14日にあった熊谷空襲では、米軍機が投下した焼夷(しょうい)弾で市街地の3分の2を焼失し、266人が死亡。高校生や大学生らとともに、若い世代への継承を考えた。
パネルディスカッションで語り合う米田主美代表(左から3人目)と若者たち=25日、熊谷市宮町の市緑化センター
研究発表では、熊谷空襲を調べている若者が報告した。市内にキャンパスがある立正大学大学院修士課程2年生の伊藤大平さん(24)は、「熊谷に残る戦災の痕跡とその継承」をテーマに登壇。伊藤さんは空襲の歴史を知ろうとする世代は高齢者が中心だと指摘し、「学校教育だけではなく、市内の会社が研修で学んではどうか。地元企業であれば、地域の歴史を学習する必要がある」と提案した。
県立熊谷西高校出身で、駒沢大学2年生の斎藤可奈さん(19)は「熊谷空襲と防空法」と題して発表した。斎藤さんは国内で200回以上も空襲があったにもかかわらず、終戦前日の熊谷空襲でも多数の犠牲者が出たことに疑問を持ったという。当時あった防空法では住民が避難することを禁じ、消火活動などの義務を課していたことを挙げ、「政府は国民を守ろうとしていなかった」と断じた。
パネルディスカッションには伊藤さん、斎藤さんや、同会が6月に行った戦跡巡りに参加した高校生らも加わった。戦跡巡りの感想を、県立熊谷女子高校2年生の梶田弥花(みはな)さん(17)は「本当に空襲があったのだと実感した」と話す。県立熊谷高校2年生の上村駿輔さん(17)は「紙の資料では読んでいたが、それだけで知ったつもりになっていた」と振り返る。熊谷女子高2年生の加藤優綺(ゆうき)さん(17)は母校も被害を受けたことに触れ、「熊谷で空襲があったことは、入学して知った。風化させてはいけない」と誓う。
斎藤さんは「私たちが当時を研究することで、未来の平和につながる」と自覚する。同会の米田主美(かずみ)代表(79)は、日本が防衛費を拡大している現状と、ウクライナやパレスチナ自治区のガザなどで続く戦争にも言及しながら、「熊谷空襲の記憶を若い人たちがつないでいってほしい」と期待した。
=埼玉新聞2024年8月29日付け11面掲載=
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